大阪高等裁判所 平成2年(う)866号 判決 1991年4月26日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人上原茂行、同阪本政敬、同青木秀篤三名連名作成の控訴趣意書及び弁護人青木秀篤作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これらを引用する。
第一 控訴趣意に対する判断
論旨は、要するに、被告人が本件交差点に進入した時点の対面信号機は黄色の燈火の点滅(以下「黄色点滅」という)信号を表示していたのに、同信号機が赤色の燈火信号を表示していたとして被告人に赤色信号を看過した過失を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。
そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討するに、原判決は、以下の理由により破棄を免れない。
一 原判決が認定判示した罪となるべき事実は、当初の公訴事実(主位的訴因)のとおりであって、
「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和六二年一〇月一九日午後九時五七分ころ、普通乗用自動車を運転し、奈良県<住所略>付近道路を、時速約七〇キロメートルで東進し、同地先の信号機により交通整理の行われている交差点を直進するにあたり、対面信号機の表示を確認し、これに従って進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、対面信号機を確認せず、同信号が赤色の燈火信号を表示していたのを看過して、前記速度のまま同交差点を通過しようとした過失により、左方道路から青色の燈火信号に従って、同交差点に進入しようとしているS(当時二八年)運転の普通乗用自動車を、左前方約19.8メートルに認め、急制動するとともに右に転把したが間に合わず、同車右側面部に自車左前部を衝突させて、右S運転車両を転覆させ、よって同人に対し、肋骨骨折等の傷害を負わせ、同月二〇日午前二時二五分ころ、同県奈良市<住所略>石州会病院において、同人を同傷害に基づく右血気胸及び皮下出血に起因する出血性ショック死させたほか、自車の同乗者O(当時二五年)に対し、加療約一〇日間を要する顔面多発性挫創等の傷害を負わせたものである。」
というのである。
二 右事実のうち、争いがあるのは、事故当時の本件交差点の信号機の表示の点のみであり、その余の事故の日時、場所、態様及び結果が右認定のとおりであることは、関係証拠上疑問の余地がない。そして、関係証拠によると、本件交差点の信号機は、午後一〇時にそれまでの青色・黄色・赤色の定周期信号表示(被告人車が進行していた東西道路の信号機の表示は青色二〇秒、黄色三秒、全赤色二秒、赤色二三秒、全赤色二秒の順に変わる。)から東西道路が黄色点滅で南北道路が赤色点滅の夜間閃光表示に切り変わるように同信号機内臓の時計等によりセットされていたが、この種信号機の定期点検においては、内蔵時計に前後三分以内の誤差が生じていても正常と判定され、その誤差は報告書にも記録されていなかったところ(本件信号機の本件事故前の直近の点検は約八か月前の昭和六二年二月一〇日実施され正常に作動していたとされている。)、本件事故発生の時刻は午後九時五七分ころであって、午後一〇時の二、三分前と言い換えてもよい、と認められる。したがって、本件の争点は、事故当時本件交差点の信号機が未だ定周期信号表示であったのか、すでに夜間閃光表示に切り変わっていたのかという点にある。
三 原判決は、(事実認定の補足説明)の項で、事故当時本件信号機は未だ定周期信号表示であり、被告人は赤色信号を看過して進入した旨認定した理由をかなり詳細に説示しているところ、主たる論拠は、(A)被告人は、捜査官に対して、いったん、本件交差点のかなり手前で対面信号が黄色になったが、その後信号を見ていないので、事故を起こしたときは赤色になっていたかもしれない旨、供述しているが、この供述は十分信用できる、(B)本件事故の翌日(昭和六二年一〇月二〇日)は午後一〇時〇〇分〇三秒に本件信号機は夜間閃光表示に切り変わったこと、本件信号機の内蔵時計は精度が高く、遅れはあっても進む面での誤差を生じたことはないことなどからすると、本件当日も翌日以降と同じ正確さで、夜間閃光表示に切り変わっていたと認められる、ということに帰着すると解される。
四 しかしながら、(A)の被告人の供述についてみると、被告人は事故当日の実況見分時に、本件交差点進入時の対面信号は黄色点滅であったと供述し(原判決六丁表以下①参照)、翌日及び翌々日には原判決指摘のような供述もしたのであるが(同②〜④参照)、この供述につき、その後被告人はその取調べの際も黄色点滅と言ったが聞き入れてもらえなかった旨弁解しており、取調べを担当した福田弘警部も原審証言において、被告人が黄色点滅と言うので情理を尽くして説得したことを認めており、その後は、右の自白的供述を翻し、一貫して、黄色ではなく黄色点滅信号を見た旨供述している(同⑤〜⑧のほか、当審公判供述も同旨)。そして、所論も的確に指摘するように、関係証拠によると、被告人は自白的供述をしたとされる事故の翌日の実況見分時に、原審検察官請求番号二の実況見分調書添付現場見取図③地点で対面信号が黄色であるのを見たと指示説明したほかに、それより前に同図①地点でも対面信号が黄色であるのを見たと指示説明していることが明らかであるところ、①地点から③地点までは約227.5メートルであり、被告人車は時速約七〇キロメートルで走行したというのであるから、その間の所要時間は約11.7秒となり、本件信号機が前記のような定周期信号であったとすれば、被告人が①地点と③地点の双方で黄色信号を見るということは不可能であり、双方の地点で「黄色」を見たというのであれば、その「黄色」は「黄色点滅」を意味することにならざるをえない。被告人の自白的供述を録取した司法警察員調書二通においては、かなり手前で対面信号の黄色を見たなどと記載されているだけであり、右実況見分の①地点における指示説明を否定するような記載は存しない。なお、当審弁論において、検察官は、被告人の捜査及び原審段階の供述をみると、もっぱら③地点に関する供述がなされ、①地点に関しては、わずかに原審第一三回公判期日において『チラッと見たというだけで、……』と答えているにすぎないから、被告人は①地点では信号を見ていないと認めるべきである、と主張するが、前記実況見分調書のほかに、被告人の昭和六二年一一月二〇日付司法警察員調書及び昭和六三年七月七日付検察官調書にも、①地点で黄色点滅を見た旨の記載があるし、原審第五回公判期日及び第一三回公判期日において、右指摘部分以外でも、①地点で黄色点滅を見た旨の供述をしているのである。原判決が被告人の右①地点に関する供述につき、全く言及していないのは不可解であるが、右①地点に関する供述を考慮に入れると、被告人は、捜査官の誘導に根負けして一時的には「黄色点滅」を「黄色」とする供述調書等の作成に応じたのではないかとの疑いを否定することは困難というほかはない。自白的供述のうち、①地点で黄色を見たという供述は信用できず、③地点で黄色を見たという部分はこれと切り離して信用できるとすべき理由を見出すことは、被告人の供述自体を分析するだけでは不可能と思われる(原判決にも(B)の点を被告人の自白的供述の評価の前提としているような説示部分もある。)。なお、原判決がYの証言やOの捜査官に対する供述に関して説示するところは、(A)についての右評価を左右するに足りる問題点とは到底思われない(ちなみに、Oは当審証人としてその検察官調書と同旨の証言をしているところ、被告人とは昭和六三年末ころから交際が絶えているというのであって、その信用性を軽々しく否定することはできない。)。
次に、(B)の本件信号機の内蔵時計の誤差の問題についてみると、第一に、本件事故の翌日午後一〇時前後に被告人立会の上で実況見分が行われた際、午後一〇時〇〇分〇三秒に本件信号機が夜間閃光表示に切り変わったことは原判決説示のとおりであるが、関係証拠によると、その日の午後三時半ころ、M警部補(奈良県警察本部交通部交通規制関係施設第一係長)が外二名と共に本件信号機の設置場所に来て、その機械部分を開扉してしばらくの間点検したこと、及び内蔵時計はレバー操作によって簡単に修正が可能であることが明らかであるところ、原判決は同人の行動は警察官として軽率の誹りを免れないとしつつも、同人が内蔵時計を修正した疑いはないとしている。しかしながら、所論も指摘するとおり、同人が公正を担保できるような立会人もなしに突如本件信号機の機械部分を開扉しなければならないような理由があったとは、同人の原審証言からも全く窺われないし、誤差が生じた場合には修正されない限りそれが継続するという右内蔵時計の特性を知っているはずの同人らが本件の捜査担当者の指示や了解もないのに、このような行動に出たというのも不可解であり、原判決のように同人が行政事務として信号機の管理等を職務としているというだけの理由で同人に時計修正の動機が考えられないと断定することは早計と思われる。関係証拠によると、同人らのこのような行動は、被告人の勤務会社の上司と同僚が被告人の兄から警察官が信号機を開扉するかもしれないから見ていて欲しいと言われて、その日の午後二時過ぎころから本件信号機を見張っていて目撃していたことから(上司らはM警部補らが扉を閉めた直後に近寄って話し掛けてもいる。)、たまたま被告人側に明らかになったものであり、M警部補としては、いわゆる「李下に冠を正した」のであって、その原審証言における否定にもかかわらず、本件信号の内蔵時計を修正したのではないかとの疑いは残るといわれてもやむを得ない。そうすると、本件事故の翌日に本件信号機がほぼセットされたとおりの時刻に夜間閃光表示に切り変わったという事実から、本件事故当日も同様であったことが疑いの余地なく推認できるということはできないことになる。なお、原判決が指摘する事故の翌々日以降の本件信号の点検結果が正常であったことが右結論を左右するものでないことはいうまでもないところである。第二に、原判決も認めるように、原審段階における弁護人らの調査により、平成元年六月一日及び同月二〇日には本件信号機は午後一〇時〇六分を若干経過してから夜間閃光表示に切り変わったことが明らかになっているところ、このように六分以上の誤差が出たについて何か特異な事情の介在により説明できるとの証拠はなく、今西幸雄、Mや岩山博志は、原審証言において、本件と同種の信号機の内蔵時計が遅れていることはよくあったが、進んでいたことはあまりなかったと思う旨供述しているが、客観的に資料化されたデータが提出されているわけではないし、所論が指摘するとおり、交通信号制御機(内蔵時計を含む)の設計等に従事している今西幸雄は、原審証言において雷、CB無線、水銀灯点滅、工場のモーター等からのノイズにより本件信号機の内蔵時計も狂うことがあるが、理論的には、時計が遅れることはあっても進むことはないということはできない、と述べているのである(この点は同人の当審証言により一層明瞭になっている。)。前記のとおり本件信号機の定期点検においては前後三分以内の誤差は許容範囲とされていることに加えて、これらの点を考慮に入れると、本件事故当日本件信号機の内蔵時計が三分以上進んでいて、被告人の対面信号が午後九時五七分より前に夜間閃光表示に切り替わっていた可能性を否定し去ることはできないというべきである。
五 以上によると、被告人が本件交差点に進入した時点の対面信号機は黄色点滅信号を表示していた疑いを払拭できず、同信号機が赤色の燈火信号を表示していたとして被告人に赤色信号を看過した過失を認めた原判決は、証拠の価値判断を誤った結果、事実を誤認したものであり、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由がある。
第二 結論及び自判
よって、本件控訴は理由があるので、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に、次のとおり判決する。
一 主位的訴因につき、犯罪の証明がないことは、前示のとおりである。
二 原審第八回公判期日において追加された予備的訴因は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和六二年一〇月一九日午後九時五七分ころ、普通乗用自動車を運転し、奈良県<住所略>付近道路を、時速約七〇キロメートルで東進し、同地先の交通整理の行われていない交差点を直進するにあたり、当時対面信号機が黄点滅を表示し、かつ左方前方交差道路の見通しは、同所左側に高さ約二メートルの植込みがあって困難な状況であったから、左方道路から進出してくる自動車等の有無に注意し、徐行してその安全を確認しながら進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、先を急ぐあまり漫然と前記速度のまま同交差点に進入しようとした過失により、折から、左方道路から同交差点に進入しようとしているS(当時二八年)運転の普通乗用自動車を、左前方約19.8メートルに認め、急制動するとともに右に転把したが間に合わず、同車右側面部に自車左前部を衝突させて、右S運転車両を転覆させ、よって同人に対し、肋骨骨折等の傷害を負わせ、同月二〇日午前二時二五分ころ、同県奈良市<住所略>石州会病院において、同人を同傷害に基づく右血気胸及び皮下出血に起因する出血性ショック死させたほか、自車の同乗者O(当時二五年)に対し、加療約一〇日間を要する顔面多発性挫創等の傷害を負わせたものである。」
というのである。
三 関係証拠によると、本件事故の日時、場所、態様及び結果は右訴因のとおりであること、被告人が進行していた東西道路は、歩車道の区別があり車道は東行、西行とも二車線で幅員約一九メートル(車道部分は約一二メートル)であり、Sが進行してきた交差道路と本件交差点でほぼ直角に交差しているが、交差道路の左方部分は歩車道の区別がなく幅員約八メートルであり、右方部分は歩車道の区別なく幅員約4.8メートルであって、本件当時、被告人の対面信号は黄色点滅を、Sの対面信号は赤色点滅をそれぞれ表示していたこと(正確には「表示していた可能性がある」ということである。)、高さ約二メートルの植込みがあるため左方道路の見通しは悪いが、植込みは東西道路に沿って車道の端から約7.8メートルのところにあるから、左方道路から徐行して本件交差点に進入しようとする車両があれば、本件交差点のかなり手前からこれを発見することが可能であるが、S運転車両が手前で一時停止することなく、時速五〇ないし六〇キロメートルの速度で進入してきたため、被告人車とS運転車両は本件交差点内で出合頭に衝突したものであることが認められる。
ところで、被告人のように、自車と対面する信号機が黄色点滅を表示しており、交差道路の交通に対面する信号機が赤色点滅を表示している交差点に進入にしようとする自動車運転者としては、特段の事情がない限り、交差道路から交差点に接近してくる車両の運転者において右信号に従い一時停止及び事故回避のための適切な行動をするものと信頼して運転すれば足り、それ以上に、あえて法規に違反して一時停止することなく高速度で交差点を突破しようとする車両のありうることまで予想した周到な安全確認をなすべき業務上の注意義務を負うものではないと解すべきであるところ(最高裁昭和四八年五月二二日第三小法廷判決・刑集二七巻五号一〇七七頁参照)、前示事実関係に照らして検討するに、被告人が法定最高速度時速六〇キロメートルを若干上回る速度で本件交差点に進入した点を考慮に入れても、本件において別異に解すべき特段の事情はないというべきである。
そうすると、被告人に予備的訴因記載のような過失があるとはいえず、右訴因の事実は罪とならないことに帰する。
四 よって、刑訴法四〇四条、三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官重富純和 裁判官吉田昭 裁判官安廣文夫)